ときどき、母がおいしいと評判なお店のお菓子を持って、万事屋を訪ねにきた。万事屋さんを訪れるときの母は相変わらずだ。お菓子だけを渡して、ほんの少しだけ万事屋のみんなと談笑して、すぐに職場に戻ってしまう。神楽ちゃんは母のことを「お菓子おばちゃん」と呼んでいた。お菓子をくれるおばちゃんだから。じぶんの母親がそういう風に呼ばれるのは、なんだか可笑しい、悪い気がしない。お菓子おばちゃん。まるでおとぎ話のなかに出てきそう。


それから数年の間、あたしの日常には万事屋があるのが当たり前になっていった。あたしは相変わらず神楽ちゃんと二人だけで遊んだり、神楽ちゃんを含めた万事屋のメンバー、新八君やさかたぎんときと同じ時間を過ごした。学校と万事屋さんを往復する日々は、単調だけれど、決して退屈なんかではなかった。この街が好きだと思い始めると、どうしてなんだか学校もあまり嫌いではなくなっていた。


その後知ったことだけど、神楽ちゃんは夜兎という種族で、違う星から出稼ぎで地球に来ているのだという。あたしはそれをふとしたときに聞いたとき、神楽ちゃんのことをなにもしらないじぶんに気がついた。神楽ちゃんのことも、万事屋のみんなのことも。神楽ちゃんは、じぶんのことをあまり話さない。じぶんのことっていうのは、じぶんを取り巻く環境だとか、生い立ちだとか。だけどそういうことは、かんたんに話すべきことではないのかもしれない。たぶん。だってあたしだってじぶんを取り巻く環境だとか生い立ちだとかなんて話さないし、話す必要はとくにないし、機会もない。今目前にある一日があって、その一日を生きて、そしてそれがすべてなのだ、それで良いんだと思う。たぶん。


あたしは至って普通の女の子で、どこからどう見ても隙のない凡庸さで生きていたと思う、だけどあたしの周りにいるひとたち、あたしの日常を形成しているひとたちは、いつの間にやらどこからどう見ても普通ではないひとばかりが集まっていた。万事屋さんを形成しているメンバーは、みんな揃って個性的だ。神楽ちゃんはあたしと同じくらいの年頃の女の子(学校にいるような)とは全く違う雰囲気を持ったエキセントリックな女の子。かわいらしい外見とは裏腹に成人の男の人が持ち上げられないような重たい物も軽々と持ち上げてしまうほど怪力で、体育会系の男子学生と引けをとらないんじゃないかと思うくらい、食欲が旺盛だ。神楽ちゃんの足取りはいつも軽くて、躍動感にあふれてる。例えばジャングルジムのてっぺんから傘を広げて飛び降りたり、驚異的な身体能力で屋根のてっぺんまでジャンプしてしまう神楽ちゃんを見ていると、なぜだかいつもピーターパンを思い浮かべてしまうのだ。あたしはむだなものすべて取り払った神楽ちゃんの、空も飛べそうなほど軽い足取り、はやく走ることのできるあの細くて白い、力強い足の脛に、よく憧れた。神楽ちゃんを見ていると、あたしもはやく走れそうな気がしたし、空さえ飛べるような気がした。そんなことできるわけないなんてわかってはいたけれど、でも、限りなく自由な足取りで街を走り回る神楽ちゃんを見ていると、そんな気がした。
新八君は、万事屋のなかで一番の常識人。 気付かれにくいかもしれないけれど、いつだって他人のことをおもって行動してる。困ったひとを見つけたら決して放ってはおけない優しさや、心のこもった気遣いは、いつでもあたしの心をあたたかくさせた。だけど寺門通親衛隊隊長というアイドルの取り巻きのような、そういう妙なところといったら新八君は怒るだろうけれど、そういうところで、人をまとめるカリスマ性を発揮する。寺門通の話をするときの新八君の目は、キラキラとよく光る。そしてある意味万事屋さんの活気は新八君から発せられるところがあるとおもう。あたしは新八君のまっすぐな純粋さや人に対して義理堅く接する誠実さを尊敬してる。ここだけの話、あたしの周りにいる男のひとたちのなかで、結婚するとしたら新八君みたいなひとが理想だとおもう。他のひとは、吹いたら飛んでいってしまいそう。ちなみに神楽ちゃんの理想のタイプは、マッチョで色黒で強いやつ、だそうだ。あたしはボディビルダーみたいな外見を思い浮かべた。そういう面でも神楽ちゃんは変わってる。
さかたぎんときは、ほんとうに不思議なひと。つかみどころがなくて、何事に関しても適当だけど、でも底にある一本の芯、さかたぎんときというひとりのひとを支える芯は、決して崩れることはない。あたしはただいつも見上げてる。さかたぎんときはそれくらいあたしにとって高い位置にいる。ぜったいに届かない、届きそうにない。さかたぎんときは人脈が広くて、そのひとりひとりはさかたぎんときを信頼していて、みんながきっとさかたぎんときのことを好き。あたしもたぶん、その大勢のなかのひとりなのだ。さかたぎんときのことはよくわからない。とてもふしぎなひと。万事屋のおおきなあんしんと、あたしのあんしんの、象徴。


あたし自身はめまぐるしく変化する万事屋さんたちの日常を遠目に眺めながら、基本的にはいつも平穏のなかで生きていた。茫漠とした、夢のような少女時代をかぶき町というふしぎな町のなかで過ごした。夢見るような日々だった、だけどあたしは15歳になって、あのころよりもほんのすこし、物事を現実的に考えることができるようになっていった。同時にあたしが万事屋さんといっしょにすごすにあたって常に心にとどめておかなきゃいけない覚悟のようなものも理解していった。それはあたしと神楽ちゃん、新八君、そしてさかたぎんときのあいだに1センチたりとも溝なんかなくとても親密に付き合っていると思っていても、もしかしたら住むせかいがちがうのかもしれないということだ。それは胸のどこかに必ず留めておかなきゃいけないことで、それを忘れてしまったら、じぶんが辛い思いをする。そういう意味ではあたしはどこか冷めたにんげんなのかもしれないとときどきおもうことがある。でも、そればっかりは仕方のないことなのだ。認めたくはないけれど、しょうがないことなのだ。それは、万事屋さんが少々困難な仕事の依頼を受けたときに訪れる。だけどよくよく考えてみれば万事屋さんだもん。万事屋という言葉の通り、ありとあらゆる仕事を受ける、そのなかには危険な仕事も含まれているに決まっている。それはどこかで漠然と理解していたし、きっとこれからもたくさんそういうことが起きるとおもった。


あたしがどんなに万事屋さんたちのことをじぶんにとってとても大切な存在だと思っていても、彼らがピンチに陥ったとき、あたしには直接手を差し伸べることがどうしたってできない。あたしにはそういう力がない。彼らがどんな窮地にたたされていても、長い間万事屋の事務所に帰ってこなくても、あたしは普通に暮らしていかなきゃいけない。あたしにはあたしの生活があって、万事屋には万事屋の生活がある。神楽ちゃんの生活、新八君の生活、そしてさかたぎんときの生活がある。だけど万事屋を形成している3人は、もう運命共同体みたいなものなんだと、あたしはほんのすこし離れた位置で、万事屋さんを眺めながらぼんやり思う。あたしは彼らが長い期間事務所に帰ってこないとき、ただ無事に帰ってきてくれることを頭の片隅で祈ることしかできないし、それ以上のことはできないし、するべきではない。そればかりに焦がれてばかりではいけなくて、あたしにはあたしの生活、人生があることには変わりない、生きていかなきゃいけない。だけど、でも、あたしは、万事屋さんに関わっている。そして万事屋さんもあたしに関わっている。果たしてあたしが万事屋さんたちの人生に関わっているのかどうかはわからない。でも、少なくとも万事屋さんたちは、あたしの人生に関わっているのだ。それだけはたしかなことだった。だってさかたぎんときはあの日あたしに言ったのだ。あのとても寒い日の夜、澄んだ夜空に星がぱらぱら瞬いていた、きれいな夜に。「帰るか」というさかたぎんときのまるでひとりごとみたいなひとことに、あたしはとても救われた、明日からちゃんとしなきゃ、とおもった。たとえそれが間違った解釈であったとしても、そのときのあたしは、あの夜のさかたぎんときの台詞や行動におおきな安心をおぼえていて、そしてそれだけを信じて万事屋さんと、付き合ってきた。それから、神楽ちゃんや新八君の、あたりまえにあたしを出迎えてくれるときの、あのきらきらとした目や、まるで本物の家族に接するような、生活感のこもった言葉。例えば玄関のチャイムが鳴ったとき、「ちゃん、ちょっといま、僕手が離せないから出てくれない?」とか。「ごはん食べていきなよ」という新八君の言葉に、少しの間も持たず「そうアル!」と同意する神楽ちゃんの一言とか。さかたぎんときは、夜までたっぷり万事屋で遊んだあと、いつも必ず玄関まで送りにきてくれて、「送ってやろうか」と声をかけてくれた。あたしはそれに甘えてしまうこともあれば、断ることもあった。ときどき万事屋に泊まった。一週間の殆どを万事屋で過ごすこともあった。そういうなかで、万事屋の雑用や簡単な仕事の依頼をあたしが手伝うようになることは、ごくごく自然な流れだった。とても自然に、あたしは万事屋に馴染んでいった。万事屋さんたちにとっての"あたりまえ"のあたたかいふるまいに、どれだけあたしが救われていたことか。ようやく居場所を見いだせたとおもった。

一度だけ、さかたぎんときに聞いてみたことがある。かぶき町での生活があたりまえとなった、もう随分馴染んできたころだった。あたしはさかたぎんときの原付バイクの後に乗っていた。あたしがバイクの後に跨るとき、さかたぎんときは相変わらず「しっかり掴まれよ」と言った。じぶんの家まで送ってもらっている束の間のあいだ、あたしとさかたぎんときはいつもそんなに喋らなかった。あたしはたださかたぎんときの腰に手をまわしていた。
「ねえ坂田さん。」
「ん。なに」
「あたし、万事屋に入り浸ってて、迷惑じゃないかな」
あたしの心臓は少しどくんどくんいっていた。さかたぎんときは少しの間をおいて、言った。
「のんびり屋さん」
「え?」「 ちゃんはのんびり屋」
「どういうこと?」
「うまく言えないけど。そいつがただそこにいるだけでなんとなく落ち着いた気持ちになれるんだ。どんなことにも動揺したりしないだろ、あたりまえに受け入れるだろ?それがきっとおまえの持ってる力なんだよ」
「それって良いこと?」
「ただそこにいるだけでひとを安心させるような。そんなやつ、いまのご時世どこさがしたってそうそうみつかるもんじゃねえよ」
だから、とさかたぎんときは言った。「そんなこともう二度と言うんじゃねえぞ」あたしはなにも言えなかった。なにも言わずに、さかたぎんときの腰にまわしている手をぎゅっと強めた。暫くして、「……うん、ごめんね」とちいさくつぶやいた。「は鈍いから気付いてないよな。でも俺たちはたぶんおまえが想像してる以上に色々貰ってんだよ。だからたのむからそこんとこ誤解して、いなくなったりするなよ」「鈍いとか言わないで。いなくならないよ、というか、いなくなったりなんかできないよ」
鉄筋コンクリート二階建てのアパートの前でバイクはとまる。あたしはバイクから降りて、さかたぎんときの顔を見ながら言った。「ねえ坂田さん」「ん?」「ありがと」さかたぎんときは目を細めて笑った。やさしい笑い方だった。「おやすみ」それだけ言って、さかたぎんときは行ってしまった。あたしはさかたぎんときが見えなくなるまで見送っていた。さっきの言葉の余韻を確かめるみたいに、心臓のあるあたりを手でそっとおさえた。その余韻はなんだかとてもあたたかかった。

だけど万事屋さんと付き合っていくなかで、つらいと思う瞬間がひとつだけある。それは大がかりな仕事を万事屋さんが受けて、それを終えた万事屋さんが帰ってくるまでのあいだ。"待つ"、ということをはじめて経験したとき、はじめてそういうことのあったとき、もう二度と会えないんじゃないかとおもった。日に日に心が萎んでいく感じがして、そういうとき、万事屋さんにあたしがどれだけ色々なものを貰っていたかを実感した。母はあたしの変化にすぐに気付いた。普段、母はあたしに関して何も言わない。だけどときどき、妙にあたしの心を読み解くような、見透かすような、そんな一言を発する。あたしはそのとき、はじめて母のまえで涙ぐんだ。どうしよう、なにかあったのかな、と。母はただ静かに言った。「あなたにはあなたにしかできない役割があるはず。あなたはあなたのやさしさで、あなたにしかできない接し方で、万事屋さんに関わっていきなさい。そんなふうに泣くよわさは悪いことではないわ、そういうよわさは、あなたの長所ともいえる。だけど、そういうよわさを持っていたら、これからさき、あのひとたちと付き合ってはいけない」母は、あたしの肩を柔らかなやさしい手つきで撫でた。母は知ってるんだと思った。住む世界が違うけれどもじぶんにとって大切な、そういう存在を待つ側、傍観する側の心境を。


神楽ちゃん、新八君、そしてさかたぎんときがどんな仕事の依頼を受けたのかはわからない、だけど、数日の間万事屋を空けるとき、いつもたいていみんなボロボロな姿で帰ってきた。あたしは思わず神楽ちゃんに、新八君に、さかたぎんときに、抱きついた。神楽ちゃんはいつものようにてひひひ、と笑った、新八君は少しだけ照れくさそうに俯いて笑った、さかたぎんときは、擦り傷だらけの手で、あたしの頭を撫でてくれた。「は待っててくれたんだよな。ありがとな、」と。あたしはその手の重みに、大きさに、あたたかさに、そしてやさしさに、あんしんに、じぶんの不甲斐なさに、ただただ泣いて、笑うことしかできなかった。ときどき強く光るあの瞳が、あたしを見下ろしていた。まっすぐでつよい、優しい目だった。このひとには一生かなわない、そう思わせる瞳だった。大変なひとたちに関わってしまった、大変なひとたちを、好きになってしまった、それが果たしてしあわせなことなのか、それとも不幸なことなのかどうかはわからない。だけど後悔だけはぜったいにしない。だってあたしは、あのひとたちが好きだから。だからずっとそこにいる。そう決めた。

それからさかたぎんときは、万事屋の事務所を数日の間空けるとき、あたしに留守番を頼んでくれるようになった。それから何度かそういうことがあったし、またこれからもそういうことがあるとおもった、だけどあたしの役割は変わらない。ただ万事屋さんたちが帰ってくるのを待って、出来るだけ、良い状態で出迎えられるように準備する。すこしでも快適に、すぐに疲れたからだを休められるように。それだけ。あたたかい布団を用意して、お風呂を沸かして、できるだけいつもどおりにおかえり、と言って、ひとりひとりに抱きついたりする。あたしは泣かない。いつも通りに出迎える。心配したり不安がってばかりではいられない。あたしにはあたしの生活があって、人生がある。

5年間のあいだかぶき町で過ごして、万事屋さんと過ごしてきた、15歳になったあたしは、ほんのすこしだけ、あのひとたちに比べればあたしのつよくなったなんていう加減なんてほんのすこしだけなんだろうけれど、でも、つよくなった、そんな気がする。あたしをほんのすこしつよくしてくれたのは、万事屋さん以外のなにものでもない。