万事屋さんとの出会いから、何日かたった後もなお、母は言った。「なにか困ったことがあったら、万事屋さんに言いなさいね」と。いつものように。柔らかな口調で。土曜日の夕方、母がキッチンで夕食のしたくをしている。あたしはその後姿を眺めていた。テーブルで、ワンタンの皮に中身のひき肉を詰めながら。あたしは母が料理している姿を眺めているのが好きなのだ。万事屋さんと知り合ってからの最初の土曜日。「良いひとたちだったよ。万事屋さん」とあたしは言った。母は料理する手を止めて、あたしを見た、「そうでしょ」と言って、(嬉しそうに)笑った。それからまた料理に戻る。スープの煮えている鍋の火を弱める。キッチンにおいしそうなにおいが立ち込めている。それから母はひとりごとのように、「良いひとなのよ、」と呟いた。母はあの日、あたしが万事屋さんに泊まったことをまだ知らない。だけどそれを知ったところで、母は「あら。そうなの」としか言わないかもしれない。もしかしたら。それに、ひとりで家にいるよりも、母の信頼している万事屋さんにいたほうが、母も安心するのではないかと後々おもった。最初は怒られるのではないかと思ったけれど。基本的に母はあたしを自由にさせていた。良くも悪くも。門限だってなかったし。いわゆる放任主義というやつだ。 : それからというもの、あたしは、頻繁に万事屋の事務所に遊びに行くようになる。母公認、そして昔から名刺越しに知っていた万事屋さんは、中にいるひとたちの人柄の良さも相まって、あたしにとってとても安心できる場所になっていった。 あの日も、学校が終わったあと、あたしは万事屋の事務所を訪ねた。万事屋を訪問するのは、人生で2回目だ。チャイムを鳴らして、出てきたのはやっぱり新八君だった。 「ちゃん。こんにちは。神楽ちゃん?」 新八君は笑みを浮かべる。相変わらずのかっぽうぎ姿。 「こんにちは。うん。遊ぶ約束してたから」 「中入りなよ」と新八くんはあたりまえにあたしを中に招き入れてくれた。新八君はあたしとそんなに年が変わらないと思うのに、しっかりしている。大人に対しての接し方とか。あたしなんかより、はるかに年上であるかのように思える。あたしは新八君に対して尊敬のまなざしを向けている。あたしは新八君の後に着いて行く。中央の部屋の襖を開ける。ソファでテレビを見ていた神楽ちゃんが、あたしに気がついたとき、「ちゃん!」とぱっと顔をあげた。あたしは神楽ちゃんの機敏な反応に笑ってしまう。笑いながら手を振った。さかたぎんときは、ソファに寝ころびながら、ジャンプを読んでいた。さかたぎんときはあたしに気がつくと、ジャンプから目を離し、「よお、」と少しだけ笑ってくれた。あたしはちいさく会釈して、神楽ちゃんの隣に腰掛けた。 「昨日の夜、びっくりしたヨ、私、銀ちゃんがちゃんにお酒飲ませて変な薬盛って眠らせたのかと思ったネ」 と神楽ちゃんはあたしの服の裾を引っ張った。「え?」と思わず声が漏れる。 「おーい、神楽、おまえ人を猟奇的な趣味を持ってる変態みたいに言うんじゃないよー」 さかたぎんときはジャンプのページを捲りながらそう言った。悠長な様子で。 「あ、ちゃんいきなりこんなこと言われても困るよね。実はあのあとちょっとした騒ぎになっちゃって。神楽ちゃんは銀さん殴るし。僕も殴っちゃうし」 新八君がお茶を出してくれながら言う。 「おまえら発想がおかしいから。歪んでるから。どんだけ俺のこと信用してないの」 「ええ?どんなことがあったの?みんな発想が豊かだね」 「君も悠長に笑ってる場合じゃないから。大変だったんだよ?銀さんこいつらにボコボコにされたからね、人の話も聞かずに困っちまうよ、こいつら。ちゃんはちゃんで俺の背中でぐーぐーいびきかきながら眠ってるし」 「だってそりゃびっくりしますよ。笑顔で見送った女の子が、しっかり送り届けたはずの男におんぶされて帰ってくるんだから。夜遅くに。しかもぐっすり寝ちゃってるし。どうしちゃったのかと思いましたよ」 「そうネ!怪しすぎるヨ、銀ちゃんのばか!」 「いて!てんめー神楽!酢昆布の空き箱投げんな!」 さかたぎんときが上半身を勢いよく起こし、神楽ちゃんに怒声を浴びせる。その反動でジャンプが床に転がり落ちた。あたしはジャンプを拾いながら言う。 「あー、神楽ちゃん。新八君。あたしここ最近あんまり夜眠れなくってね。万事屋のお兄さんのバイクの後に乗っているうちに、ついうとうとしてきちゃったの。それで、気がついたら寝ちゃってた。それだけのはなし」 ほんとうのことなんて言えるわけがない。まあそれもほんとうのことだけど、詳細を話すわけにはいかない。だってあれはさかたぎんときとあたしだけの秘密なのだ。 「ちゃんって結構マイペースなんだね」 新八君が笑った。 「そうだよー?この子はマイペースちゃんだよ。あれだけ俺たち騒いでたのに、全然起きる気配見せねえし。というかちゃんは俺の背中にへばりついてたから一発くらいこいつらの蹴りやらパンチやら食らってたっておかしくなかったよ」 さかたぎんときはあぐらをかいた。 「マイペースなんかではなく、ただ眠りが深いというだけです。あたし、一度寝たらきっと外で爆発音がしても目覚めないって自信があります。だからきっと大きな地震がきたとしたら真っ先に死ぬとおもいます」 「変なところで自信持つんじゃないよ。それにそんなこと笑顔でしかもまっすぐな目で言われたらなんか銀さん悲しくなるからやめて」 「私、ちゃんがマイスペースが何だろうがちゃんが好きネ!それに私も久しぶりに腕をならして、スッキリしたネ!良い汗かいたヨ!」 「それ音楽ファンの集うSNSだから。マイペースね」 「って神楽おまえそれ俺に対する怒りよりも日頃のストレスを俺に向かって発散してただけじゃねえか」 「最近運動不足だったアル」 「外で遊べ」 「私夜兎だから日差しに弱いって設定アル」 「設定とか言うなよ」 万事屋はいつも賑やかで、活気がある。万事屋にいると、自然とあたしの顔もゆるんでしまう。ちいさなことがおかしくて、仕方なくなる。神楽ちゃんと二人だけで遊ぶのも良い、だけど、万事屋のみんなも交えて遊ぶのもたのしい。まあ万事屋のお兄さんは大人なので、中々あたしたちの遊びには加わってくれなかったけど。その日もあたしと新八君、神楽ちゃんがテーブルを囲みながらすごろくを始めると、さかたぎんときはソファから離れていった。「おまえら昨日のトランプといい今日のすごろくといい、古典的な遊びばっかだな」と言いながら。背中をぽりぽり掻いていた。相変わらず気だるそうな雰囲気だ。さかたぎんときは、中央の部屋の奥にある机に向かい、そこに足を乗せて座る、なんていうなんともお行儀の悪い格好をして、ジャンプや週刊誌、ときどき新聞を読んでいた。そしてごく稀に、「おいおまえら。ここは子どもの遊び場じゃないんだぜ?」なんて口をはさんだ。神楽ちゃんは「同じようなもんネ。どうせ客なんてこないアル。いっそ子どもの遊び場として開放したほうが有意義ネ」と返した。「なにおまえ有意義なんて難しい言葉いつ覚えたの」と感心したようにさかたぎんときは言った。なんだかんだでさかたぎんときはあたしたちを見守ってくれていて、遠慮なしに事務所の中で遊び回るあたしたちに対して、特に咎めるような言葉を発しなかった。だけどある夏の暑い夜、暇だから怪談話でもしようか、とあたしが提案したときには、「やめとけ。そんな話したって涼しくなるわけねえじゃねえか。かえって胸糞悪い気分になるだけだろ?ほら、ホラー映画なんて観てたって結局はみんな死んじまうだろ。後味わるくなるだろうが。暑いんなら風呂行って冷水シャワーでも浴びてこい」ともっともらしき理由を挙げて止めた。あたしは大人に対して従順な子どもだったので、「後味悪くなるのはいやだなあ」と言ったけれど、後々さかたぎんときが極端に怖がりな一面を持っているということを、神楽ちゃんを通して聞いた。本人はばれていないと思ってるけど、周りはみんな気がついている。 さかたぎんときは、いつも突然部屋からいなくなる。気がついたらいなくなっている。新八君に「万事屋のお兄さんどこ行ったのかな?」と聞くと、「あれ。そういえば銀さんいないね。どうせパチンコだよ。まったくしょうがないよね。」と溜息をついた。そしていつもその質問に関する新八君の答えは同じだった。誰もさかたぎんときのはっきりとした行き先を知らない。ここには出かけるとき、誰かに行き先を告げるという習慣がないのだ。さかたぎんときは、「いってきます」は言わないのに、「ただいま」は言う。いつも。「帰ったぞーおまえらー」なんて言いながら。そしてときどき、さかたぎんときはあたしたちにパチンコの景品らしきお菓子を少しだけおすそ分けしてくれた。あのひとは甘いものが好きだから、ほんとうに少しだけだけれど。甘いものを除いた、ポテトチップスだとかするめだとかよっちゃんいかだとかベビースターラーメンだとかそういうものだ。 いつしか万事屋のみんなと一緒に喫茶店に入ったときの話をしようとおもう。その日、それなりにお金が入った為、何でも好きなものをおごってくれるとさかたぎんときが言ったので、あたしはとてもうきうきした気分だった。さんざん悩んだ末、あたしはメイプルシロップのたっぷりかかったパンケーキとホットミルクを注文した。メニューに印刷されていた写真があまりにおいしそうだったから。神楽ちゃんは甘いものには興味がないらしく、スパゲッティナポリタン、新八君はオムライス、さかたぎんときはクリームのたっぷり乗ったイチゴパフェを注文した。せっかく喫茶店に来ているのに、どうして神楽ちゃんも新八君も甘いものを頼まないのだろう、むしろ大人のさかたぎんときは、ブラックコーヒーしか頼まないべきなのではないかと思っていた。そのときのあたしは、大人に対してそういうおかしな固定観念を持っていた。たぶん、普段母がコーヒーばかりを飲んでいて、甘いものを滅多に口にしなかったからかもしれない。 それをさかたぎんときに言うと、「ばかかおまえ。ブラックコーヒー?あれは炭で出来てんだよ」とブラックコーヒーのことを表現した。喫茶店の店主の肩が微かにぴくっとなったのを、あたしは見逃さなかった。ちなみにさかたぎんときがときどきコーヒーを飲むときには、信じられない数の角砂糖と、更にはミルクをたっぷり入れる。それはもはやコーヒーではない。コーヒー牛乳だ。だったら最初からコーヒー牛乳を買えば良いのにと思ったけれど、「ちがうこれはカフェオレだ」とさかたぎんときは言い張った。 あたしが写真と同じメイプルシロップのたっぷりかかったパンケーキに胸を躍らせていると、さかたぎんときはパフェをつつきながら言った。「おまえのそれうまそうだな。一口くれよ」「良いよ。でもちょっとだけだよ」「わかってるって」あたしがパンケーキをさしだすと、なんとさかたぎんときはその半分以上を食べてしまったのだ。「お兄さん…いまの一口じゃないよ」「一口だって」さかたぎんときが口をもぐもぐさせながら言った。新八君が哀れそうな目であたしを見ていた。オムライスを口にしながら。神楽ちゃんはスパゲッティナポリタンに夢中になっていた。神楽ちゃんはものを食べているとき、いつも周りが見えていない。 あたしがあまりのショックに机にうつ伏せになりめそめそしていると、始終を目撃していた店主が、さかたぎんときに非難の声を浴びせた。周りもさかたぎんときに対して非難の声をあげた。「え、ちょっとなに?銀さんなにか悪いことした?これじゃあ俺が悪者じゃねえか…」「いやいまの銀さんはあきらかに悪者ですから」新八君が口をもごもごさせながら言う。そうしてさかたぎんときはあたしにもうひとつパンケーキをおごるはめになったのだ。あたしはそれ以来、さかたぎんときの「一口くれ」は信用しないことにしている。ついでに言うと、神楽ちゃんの「一口おくれヨ」も信用できない。さかたぎんときは、変な大人だ。さかたぎんときは変な大人で、あたしはときどきそういう大人げないところに腹をたてることもある、でも、結局はさかたぎんときのそういうところも含めて好きなのだ。それは神楽ちゃんも、新八君も同じだとおもう。 |