捨てられてしまった子犬みたいにみじめな気持ちだった、ただぼうっと玄関に立ちつくす。だけどこんな気持ち、あと少ししたらふっとうそみたいに消えてしまうんだ。はやく。はやく。通り過ぎて。どっかいって。家に帰って、テレビを見る。読みかけの本を読む。そういえば今日は、神楽ちゃんと会うまえに、図書館で本を借りたんだった。 廊下は、寒い。吐く息はすこしだけ白かった。 「お嬢さん。」 「?」 振り返ると、さかたぎんときがいた。さっきよりかは乱れていなかった。着崩した着物。手にはゴーグルのついたバイク用のヘルメットを持っていた。出かけるのだろうか。 「おじさん。」 「お兄さんと呼びなさい。」 「あれ?お母さんは?」 「お仕事。」 「…ったく。勝手だよなあ。」 さかたぎんときは溜息をつく。 「しょうがないです。お仕事しなきゃ、生活していけないもん。」 あたしはさかたぎんときの顔を見ないで言った。 「おにいさんはお仕事しなくてもぎりぎり生きていけてるぞ。」 「え?万事屋さんってお仕事じゃないんですか?」 「万事屋っつってもよお。なかなか客からの依頼がこねえんだよ。基本的には仕事がないのと一緒さ。」 「…」 「まあ気楽にやってる。収入少ないけどよ、俺ぁこの仕事が好きでね。」 さかたぎんときはひとりごとみたいにそう言った。 「…あたしの母も、ひとの世話焼くのがすきだって。だからずっとそういうお仕事してるんです。」 さかたぎんときは、すこしわらった。やさしそうな、温度のこもった笑みだった。「あのヒト、おせっかいだもんなあ、」、と。 「っていったっけ?」 「はい。」 「敬語使わなくて良いから。そのほうが親しくなれるだろ?おまえの母さんなんて初対面からタメ口だったぞ。」 名刺のなかの、よろずやさん。さかたぎんとき。かぶきちょう。随分長い間、いったいどんなひとなんだろうって想像を膨らませていた。心のどこかで。母がひとりごとのように、ときどき口ずさむよろずやさんの話。しょっちゅうでたらめばかりを口にする母だから、その数々のエピソードが本当なのか、嘘なのかどうかはわからない。あたしは、「またママの虚言がでた」、と内心思いながら、いつもそうなんだあ、と聞き流してばかりいたけれど。だけどその数々の空想で塗り固められた名刺のなかのよろずやさんが、いま、あたしの目のまえに立っている。なんだかふしぎな感覚だった。 「どうすんの?母さん行っちまったけど。」 さかたぎんときがあたしの顔を見る。相変わらず見下ろすようなかたちで。 「かえる。」 「帰るんなら乗っていきな。俺もちょうどコンビニ行かなきゃいけねえんだ。」 さかたぎんときはあたしに背を向けて、扉を開ける。ぴゅうぴゅうと冷たい風が廊下に吹き込む。 「…うん。」あたしは靴を履いて、マフラーを巻く。 「ちゃん、帰っちゃうアルか?」 扉を開けて、外に出ようとした拍子、後ろから声をかけられた。振りかえると、神楽ちゃんと新八君が立っていた。 「うん。そろそろ。」 「またぜったい遊びにくるアル。あしたも遊ぶネ。」 神楽ちゃんの言葉には、いつも力がこもっている。だからあたしは、神楽ちゃんの言うことだけは、いつも本気で信じてしまう。 「うん。」 あたしはわらった。あたしだってもうすこしのあいだ、ここにいたい。でも、どうしても"ひとの家"という距離感を感じてしまうところがあって、なかなかそういうことを切り出せない。あたしはそういうこどもだった。無邪気で純粋なずうずうしさ、むしろそうも感じさせないそういう部分は、こどものもつ最大の特権なのだということを、そのときあたしは知っていたのに。 「また大富豪やろうね。」 と新八君。「うん。」とあたし。 そういう言葉のやりとりは、あたしの心をあたたかくさせる。ほら。もうすぐみじめな気持ちは通り過ぎる。あたしは、ひとりぼっちじゃない。 「じゃあ、」とあたしはふたりに手を振る。 「ばいばいネ。」と神楽ちゃん。「またね。」と新八君。 「行くか。」とさかたぎんとき。「はい。」とあたし。 外はとても寒かった。階段をくだる。木造建築の建物の階段は、ぎしぎしと音をたてる。さかたぎんときが前を歩いている。くせのある銀髪がふわりふわりと揺れていた。階段を下りきると、原付バイクがとまっていて、さかたぎんときはそれに跨って、ゴーグル付きのヘルメットを被る。かちゃり、と音がする。さかたぎんときはあたしに後に乗るようにというような手振りをして、それからもう一個あたしにヘルメットを手渡した。「大人用だからこどもにはちょっとでけえかもな。」さかたぎんときの言ったとおり、それはすっぽりとあたしの頭を覆った。大きすぎて、目元が隠れそうになる。さかたぎんときはへんてこりんなあたしを見て、わらった。「いやです。これ、前がみえません。」「いや。かぶらねえとあぶねえから。違法だから。我慢しろ。」笑みの含まれた声。さかたぎんときは可笑しそうだった。ぶろろろ、という音と共に、原付バイクは走り出す。 「しっかりつかまれよ。おまえ、ちっちぇえからな。つかまってねえと振り落とされる。」 さかたぎんときがこわいことを言ったので、あたしは必死になってさかたぎんときの背中にしがみついた。原付バイクの後に乗ったのははじめてだった。だから正直すこしこわかった。だけどその感覚に慣れてくるとなんだかたのしくて、風景を見渡す余裕も出てきた。 疾走感が心地よかった。雨上がりの夜のにおい。つめたい風。バイクが走る音とともに急速に流れてゆく風景。街のネオン。 さかたぎんときは、ときおりあたしに道を尋ねながら、バイクを走らせた。あたしに何か問いかけるその声はとても大きくて、神楽ちゃんと同じように、力のこもった声だった。あたしはさかたぎんときの声に負けないように、大きな声で返事をする。だけどときおり「ああ!?」と聞き返される。聞えてないはずなんてないのに。それが意図的なものなのかそれとも本当にあたしの声が聞こえていなかったのか、わからない。「ガキのうちにでっけえ声出しといたほうが良いぜ。そうすっと大人になってもでけえ声で喋る癖が抜けなくなる。声でけえことは良いことよ。」とさかたぎんときは言った。大きな声で。「そっかあ。あたし、滑舌わるいからなあ。」「おまえこどものくせにそんなこと気にしてんの。」「あたしのこえ、小さいかなあ。」「ちゃんと聞えてるぜ?さっきから耳元でうるせえくらいだ。」とさかたぎんときは笑った。なんだ、やっぱりさっきの「ああ!?」はわざとだったんだ。「なら今度いっしょにあいうえお体操でもやるか。」「やりません。」 徐々に見なれた風景が近づいてくる。 あたしと母の住んでいる、アパートが見えてくる。そこはとても静かで、ひっそりとしていて、なんだかすこし寂しい場所だ。 家に帰っても、ひとり。そこにはだれもいない。おかあさんも、神楽ちゃんも、新八君も、さかたぎんときも。 あたしはさかたぎんときにまわしていた手の力をぎゅっと強めた。バイクの走る音だけが聞こえる。それがせかいを満たしていた。あたしと母の住んでいるアパートのまえ。ひっそりと静かなところ。あたしとさかたぎんときを乗せたバイクが、停車する。 「ちゃん。」 さかたぎんときがあたしの名前を呼ぶ。心細さがあふれて、胸がきりきりと痛かった。 「着いたけど。」 エンジン音がとまると、ほんとうにそこは静かだった。静かで、とても寂しい場所だった。なにも聞こえない。まるでせかいのはてにきちゃったみたい。原付バイクで?どうしてなんだか、さかたぎんときを目のまえにすると、気持ちが弱くなった。あれ?あたしって、こんなによわかった? なにあまえてんの?ばかみたい。どうすんの?あれ?あたし、いま何歳だっけ?ばかなの?あれ? でも、あたしは知っていた。無意識に感じとっていた。このひとは、きっとゆるしてくれる。甘えるこどもも、泣いているこどもも、よわいこどもも。きらいかもしれないけど、ゆるしてくれる。 それにこうしていま、あたしはたぶんみっともないところを見られている。じぶんの、こころをみられている。 あたしは、さかたぎんときの腰に手をまわしたまま、おおきくてあたたかい背中に顔をうずめたまま、はなれなかった。はなれられなかった。ぎゅっとつかまったまま。あたしはもしかしたらいま、泣いているのかもしれない。さかたぎんときの、背中を濡らしてしまっているかもしれない。どうしよう。泣いてるって、ばれてるかな。さかたぎんときの背中はあたたかくて、ひろくて、それだけがあたしの視界にひろがっていた。目を閉じると、いつだって宇宙がひろがっていた。そこには無数の星が輝いていた。さかたぎんときの背中は、ときおり思い浮かべる、あのまぶたの裏側の宇宙に、ほんのすこし、似ている気がした。 「帰るか。」 ほんの一瞬、なんだかふしぎな間があって、その後、さかたぎんときはぽつり、とそう呟いた。"帰るか"。どこに?それから、エンジン音が聞こえて、バイクが動き出す。暫くの間、バイクの走る音だけが聞こえていた。 ぶろろろろろ。ぶろろろろろ。 いったい、どれくらいの時間が経過したのだろう。 「なあ。腹の底からでっけえ声出すとな、どんな名前だったかは忘れちまったけど、脳に何かの成分が行き渡ってさ、その作用が相当身体に良いらしいのよ、すっきりするんだってよ。でっけえこえ出してるとさ、声出すのに必死になっちまうだろ?その間は何も考えないだろ?声と一緒に心のなかのわずらわしいもん、全部出ていっちまうのかな。」 あたしはなにも言わなかった。あたしは何も言わなかったけど、さかたぎんときは歌を口ずさみはじめた。それもまた大きな声で。千の風になってだった。どうしてよりによって千の風になってなのだろう。しかもうろ覚えの歌詞なのか、ところどころ間の抜けている歌だった。歌詞がわからない個所は、ハミングみたいな「んらららー」とかそういうもので誤魔化していた。あたしはなんだかおかしくなって、わらってしまう。泣いてしまったあと、笑う、なんだかすこし気恥ずかしい。だけどあたしがわらったことも気にせずに、さかたぎんときは千の風になってを口ずさんでいた。 |