母は他の街にいたころにも家政婦として働いていたことがあったから、この街でもそういう類の仕事をしている。母はいま、真選組という武装警察の屯所で、女中さんとして働いている。その真選組に属する人たちはすべて男性で占められているらしく、その人たちの世話をすることが主な仕事なのだという。男性に囲まれた環境は中々ハードみたいだけれど、お給料が高く、待遇が良いそうだ。 それにユニークな人ばかりいて、毎日が活気であふれていて、充実している、と母はわらった。 仕事がハードでも、そのなかで働いているひとたちの人間関係が良好ならば、そのハードな仕事も苦にならない、と母は言っていた。 だけどそこは基本的に住み込みで人を採用している。そのせいで母は殆ど家をあけている。だからあたしは殆ど一人暮らしの状態だった。母はそんなあたしに対してに申し訳なく思うのか、お小遣いだけは多くくれた。だけど母は女手ひとつであたしを育ててくれているわけで、家計が裕福だとはとてもいえない。あたしは母から受け取ったお金を最低限しか使っていない。殆どは使わずに貯金する。自分で自由に使えるお金がほしいと思った。だからはやく自分でお金を稼ぎたい。常々そんなことを考えていた。 母が働いているから、家のことは殆どあたしがやっている。炊事、洗濯、掃除。だけど二人暮らしだし、洗濯物も少ないし、母もあたしも部屋が散らかっている状態が好きではない。だからあたしたちの暮らしているアパートには殆ど何もない、とても簡素な部屋だった。 あたしの母は、うつくしいひとだ。(自分の親のことをそう表現するのもどうかと思うんだけど)あたしの母の実年齢を聞くと、たいていのひとは目をまんまるくする。それにまさしく天真爛漫、という言葉の当てはまるひとで、引っ越した先の街で新しい仕事を見つけても、すぐにその環境に適応した。そして母はしっかりとそこに自分の居場所を見出した。みんなが母のことを好きになっていった。だけど母はせっかく見出した居場所に愛着みたいなものを抱かない。母はいつもにこにこしていて、笑顔を絶やさないひとで、初対面でも打ち解けた話のできるひとだった。どんなに小難しいタイプのひとでも、あたしの母を目のまえにすると自然と心があらわになる。母はひとの心を開くのが上手だった。母はひとが好きなのだ。それからその環境に暫くいると、必ずといっていいほど母に言い寄ってくるひとが現れる。だけどあたしの母は仕事とプライベートははっきり区別するひとだから、職場での恋愛はありえないのだと言っていた。それにもうなくなってしまってはいるけれど、母は父、すなわち自分の夫を愛していた。私は一生分の恋をした、と母は言った。 あたしは、まだひとをすきになったことがない。 母譲りの愛想笑い、だけどあたしのそれはまるで機械、あるいはお面みたいな笑顔だ、と昔誰かに言われたことがあった。あたしだって、うまく笑いたい。 この街に越してから数日間は、あたしにとってとても孤独な日々だった。 母は住み込みで働くことに関して躊躇していたけれど、でも働かなければ生活していけないし、あたしだってじぶんの身のまわりの世話に関して親の助けが必要なほど、幼くはない。だから、あたしはそこにしなよ、あたし家事を覚えるから、と母に言った。母はすこし納得のいかないような、どこか寂しそうな顔をして、「……そうね。」と呟いた。橙色の照明の下、食後、中国茶を飲みながら。食事中はいつもテレビをつけない。 だけどやっぱり母以外に知り合いのいない街での生活は孤独でつまらなくて、寂しいものだった。あたしは一日の大半を一人で過ごした。あたしはそれなりにひととの繋がりを欲する、それがないと寂しくなる、心が不安定になる。ひととの繋がりをあたりまえに欲する、普通の、にんげんの、おんなのこなのだ。だからこの街に越してからの暫くは、寂しい気持ちでいつも過ごした。孤独でいることがへいきなひともいる。へいきじゃないひともいる。だけどあたしはたぶん、へいきじゃないほうの類に入る。寂しい気持ちが長く続くと、よく泣いた。ひとりぼっち。家のなか。お風呂のなかで。泣いて、泣いて、そのままあたしもなみだと一緒に溶けてなくなってしまえばいいのに、と思った。落ち着いたとき、あたしはお湯をいっぱいに張った浴槽に、頭の上まですっぽり浸かった。呼吸ができる、限界まで、お湯のなかで潜っていた。あたしは水のなかで目を開けられない。こわい。ちいさいころから、ずっと。だからかたく目を閉じて。そうしていると、ほんとうにじぶんがお湯のなかに溶けてしまったみたいな感じがする。市販の入浴剤。乳白色のお湯のなか。白く濁ってなにもみえない。酸素をもとめる。限界がきて、ぷはっとお湯から顔を出す。 そんなとき、定期入れのなかの、万事屋さんの名刺のことをふと思い出す。そういえば、この街に万屋さんはあるんだっけ、と。濡れた髪の毛と、髪の毛のへばりついた頬、全身から水滴を垂らしながら。裸のあたし。ぺったんこな胸。浴室の曇った鏡。おでこが露わになったあたし。ぶさいくな泣き顔。かなしそうな顔。ぶっさいく、とつぶやいて、むりやりわらう。 かなしくて、寂しい、そんな日の夜、寝て、朝、目が覚める、あたしは懲りずにまだ生きている。寂しさで死ねると思ったのに、実際に寂しさで死んだひとはいない。寂しいひとは寂しいし、しあわせなひとはしあわせだ。かわらない。いつも。こんなとき、かみさまなんていないよねって呟いた。それで、すこしだけ、泣いた。まるで抜け殻みたいな身体を起こして、すこしふらつきながら、顔を洗いに行くんだよ。学校に行かなきゃって。朝陽が眩しくて、白い。こんな日は、とても眩しい。 |