母は相変わらずだ。万事屋さんとあたしが出会った、5年前と全く母に変わりはない。うつくしい容姿も、人前では天真爛漫だけれども、あたしの前では口数が少なく、落ち着いた性格も。職場とプライベートはしっかり区別するところも。そして相変わらずあたしの父、自分の夫をあいしているということも。だけどある日突然、母は言った。「今度、屯所に遊びにいらっしゃい。ももうすぐ働いて、自分でお金を稼ぐようになるでしょう。だから、私の働いている場所も、見ておくべきだと思うのよ」母が自分の職場に遊びに来るように言うなんて、はじめてのことだった。よほどその職場が気に入っているのだろうか。なんだっけ。真選組っていう、武装警察の屯所。

母の職場に見学に行くことになったのは、夜ごはんを食べたあと、いつものようにお茶を飲みながらテレビを見ているときだった。「今度、屯所に遊びにいらっしゃい」母はときどき、気まぐれにそんなことを言った。だけどあたしはいつもたいしてそれを気にせず相槌をうった。そのときもいつものように特に何も考えもなしにそうだね、と言った。母はそういうことを言っておきながら、実際それを実行することはごくまれだったからだ。だけどそのときは「それじゃあ、明日にでもいらっしゃい」と母はにっこりした。あたしは母ににっこりされると断れない。

陽の傾いてきたころ、あたしは母の職場である真選組屯所に向かった。季節はまだ肌寒い3月の下旬、よく晴れた平日の木曜日だった。あたしは母の職場である、真選組屯所の門を叩いた。屯所の前でわたしと母は待ち合わせをしていた。ちょうど、母が休憩の時間に入るころだそうだ。母は既に屯所の門の前にいて、あたしを見つけると、にっこりした。「よく来たわね」と母は言った。屯所内は想像していたより広かった。桜の木が何本か植えてあって、桜が開花すればそこでお花見ができそうだった。あたしは屯所内をきょろきょろ見回しながら、母の背中を追いかけた。どこからか威勢の良い男の人たちの声が聞こえてくる。母は、女中さんたちの住まいにあたしを案内した。隊士の人たちの寝泊まりする部屋からすこし離れたところにその部屋はあった。日当たりのよい大部屋で、そこに布団を並べて女中さんたちは寝るらしい。昼間は部屋の真ん中にこたつが置かれていて、そこで何人かの女中さんがお茶を飲みながら、テレビを見ていた。休憩室にもなっているらしい。
まず、母は他の女中さんたちにあたしのことを紹介した。たぶん、母が普段から仲良くしている女中さんたちらしい。みんな賑やかで、良い人そうだった。母とおなじくらいの年齢の人もいれば、母より年上の人もいる。母が紹介したことで、あたしは女中さんたちの注目の的となってしまい、あたしは少々照れくさく、下を向いた。あたしはもごもごと、挨拶をした。「かわいい子ねえ。お母さんにそっくり」という言葉が聞こえてきて、どうせおばちゃんの社交辞令だろうと思うと同時に、母に似ていると言われて、悪い気はしなかった。母とあたしは寝室兼休憩室を後にして、台所、食糧庫、掃除用具の置かれている部屋等を見学してまわった。主に女中さんの住まいを見学していたのだけれど、案内の途中、母が他の女中仲間と出逢わせ、談笑をはじめてしまい、しかもそれが長引きそうだったので、あたしは「お手洗いに行ってくる」とうそをつき、適当に屋敷を散策することにした。

ふらふらと適当に廊下を歩いていたら、いつの間にやら隊士さんたちの住まいに迷い込んでしまった。しかしどこの部屋も同じようなつくりになっていて、歩くたびにここがいったいどこなのか、わからなくなっていった。
たしかにそこは母の言ったとおりすべて男性で占められているというだけあって、独特な雰囲気があった。年頃の女の子がひとりそこを立ち歩くにはなんだか少々気恥ずかしいものがあった。ふと渡り廊下の外に目をやると、上半身裸の男の人たちが竹刀を振り回していたりしているし。そういうひとたちを見ないようにと出来るだけ外に目をやらないように歩いていた。どうしようかなと思って立ち止った瞬間、俯いていたあしもとに陰が出来た。なにかと思って顔をあげる。

「あれ。女がこんなところで何してんでさぁ」
そこにはあたしよりも二つか三つ年上くらいの、整った顔立ちをした男の子が立っていた。そのひとはイヤフォンを耳にあてていた。微かに音漏れしていた。あたしはまばたきを三つほどした、そのひとも目をぱちくりさせていた。あたしはなんだか気が動転してしまい、べつに悪いことをしていたというわけでもないのに、まわれ右をして、小走りで逃げた。どうして逃げたのかというとそれはわからない。ただそのひとの発する、ただならぬ威圧感が怖いとおもった。だから反射的に逃げてしまった。そしたらそのひとが追いかけてきた。当然といったら当然なのかもしれないけれど。
「おい待てこら。ここは女禁制だぜ?忍び込んできたのか?」
そのひとは走っているにも関わらず、声量はさきほどと全く変わらない。あたしは運の悪いことに、滑って転んだ。声にならない悲鳴をあげた。やたらすべすべした床だった。これも日頃母たち、女中さんが頑張っているお陰だろうか。そしてその女中さんたちが頑張って床を掃除したばっかりに、あたしは滑って転んでしまった。今日、はだしだったらよかったのに。あたしは余所行き用の着物を着ていたし、きちんと足袋を履いていた。
「な、なんで追いかけてくるんですか」とあたしはお尻をぺたんと床につけ、両足を開くような体勢をして言った。我ながら妙な体勢で、妙な言葉を口にしたとおもった。頭の中が真っ白だった。そのひとはべつに怒っているわけでも笑っているわけでもなく、一定の、どこか間の抜けたような表情を崩さない。
「そりゃおまえ。逃げるんだもん。追いかけたくもなるだろ」
あたしの心臓はどくんどくんいっていた。
「おい」
そのひとが段々あたしに近づいてくる。
「パンツ見えてる」
そのひとは静かにそう言った。あたしはもう赤面して俯いているしかなかった。正直、恥ずかしくて、泣きたい気持ちでいっぱいだった。あたしは咄嗟に足を閉じて、ぴっと背筋を伸ばして正座をする。そのひとはあたしの前に屈みこむようにして座り、あたしの顔をじっと見る。なにその上目づかい。やめてほしい。そして微かに唇を開き、こう言った。
「うっそー」
そう言ってそのひとは意地の悪い笑みを浮かべた。にやり、と。え、なにこのひと。まああたしもこのひとにしれみれば「え、なにこのひと」って感じなんだろうけど。でも、考えてみれば着物からパンツが見えるわけがない。たぶん。
「で、何してんだ」
「べつに怪しいものではありません、ただ母がここで働かせてもらってて。えーとそれで今日は見学ってかたちでここに来てまして。適当に歩いていたら迷っちゃったんです」
あたしは現状を必死で説明しようと、なんとかその場を取り繕うと、頭でちゃんとまとめないまま言葉を発した。男の子は相変わらず、きょとんとしたような表情を崩さずに、あたしの顔をじっと見ている。
「なに。カーチャン?ここの女中?」
「はい」
「あ、そう。で、何で逃げたの」
「いや。その。あの。……こわかったから?」
正直な理由を述べると、やっぱりそのひとは眉をひそめた。
「俺のどこが恐いんだ。優しそうだろうが。で、カーチャンの名前は」
あたしが母の名前を口にすると、そのひとはああ、というような顔をした。べつに顔が恐いとかではない。ただ、なんとなく雰囲気が恐い。
「おまえあのひとの娘さんなのか」
「母を知っているんですか」
「そりゃまあ。隊士の中でも評判良いし。親しみやすいっつーか」

それからあたしは、そのひとにここに来るまでの成り行きや母の話を少しした。男の子は、特に何も言わず、ふうん、とただ相槌を打っていた。だけどそのひとはなんだかんだであたしを門まで案内してくれた。いつのまに日が暮れてきている。腕時計を見ると、もう4時が過ぎていた。
「カーチャンに会っていかなくて良いの」
「良いんです。それにもうすぐ夕食の支度に取りかかる時間だろうし、あたしに構ってる暇ないですよ」
「ふうん。なら良いか」
栗色の髪の毛がさらさらと春風に揺れていた。武装警察というほどだから、もっとがっちりした、厳格そうなひとばかりが集っているのかと想像していたけれど、こんなに若いひともいるのかとおもった。よく見ると、あたしとふたつ、みっつくらいしか年が変わらないくらいだろう、とおもう。

「じゃあ、ありがとうございました。さようなら」
あたしはぺこりと頭を下げる。屯所から二、三歩踏み出したところで、そのひとはあたしを引きとめた。
「あ、おい」
「なんですか」
あたしは男の子の顔をふりかえる。男の子は、思いついたようにこう言った。
「おまえさ、これから俺のこと先輩って呼んでくんない」
「なんですか?その突飛な頼みごと。あたしはあなたの後輩じゃないですよ」
「カーチャンが働いてんだろ」
「たしかにお母さんはここで働いているけど、お母さんは女中で、あなたは隊士でしょう」
「俺、ここの一番隊隊長なんだよね」
男の子は、すこし得意げにそう言った。
「…そんなに若いのに?」
「そりゃまあ俺に実力があるからだ。ほめんな。照れるだろぃ」
「ほめてないです」
「で、おまえのカーチャンなんて俺の権力で高給させることも減給させることもできるわけ」
「なんでそんな下らないことで脅されなきゃならないのです」
「そりゃおまえ、一生に一回は年下の女子に先輩って呼ばれたいだろ」
「ちょっとよくわからないです」
「ばかだからでさぁ」
「あなたに言われたくない」
「それから俺の名前は沖田総悟な」
「沖田先輩って呼べば良いんですか?」
「いや、先輩だけで良いよ」
「じゃあ先輩。さようなら」
「あ。なあ、」
「なんです」
「名前教えろよ」

「俺が先輩ならって呼んだほうが良いのかな。さん?あ、でもそれだとカーチャンと被っちまうよな」
「べつになんだって良いですよ、悩まないでください」
「じゃあボケナスって呼んでも良いのか」
「それって悪口じゃないですか…」
「まあそう落ち込むなって。ほんとうのこと…なのかどうかは知らないけど」
「そうくるならあたしも、クルクルパーって呼びますよ」
「そりゃ困るな」

そう言って沖田総悟という名前らしいそのひとは、顎に手をあてて、考え込むような素振りをした。あたしは「じゃあ」と言い、そのひとに背を向けて歩き始める。その場限りのやり取りなんだろうとおもった。冗談なんだろうとおもっていた。だけど、あたしはこのひとに、このあとさんざんいじめられることになる。最初は真選組屯所に来ることなんてきっともう二度とないんだし、と思っていた。だけど実は万事屋さんと色々関わりがあるとかで、頻繁に街で顔を合わせるようになる。街どころか、万事屋に来ることもある。この沖田総悟たる人物は、あたしと顔を合わせるたびに、にやりとあの意地悪な笑みを見せてくる。