先輩の話をしようとおもう。あたしが先輩と呼んでるそのひとは、その言葉通りの意味であたしの先輩というわけではない、だけど、あたしはそのひとをとあるやむを得ない(しかしくだらない)理由で先輩と呼んでいる。彼は真選組の隊士で、そのなかでもけっこう高い地位、というよりむしろ幹部にあたるひとらしい。よくわからないけど。彼と出会うきっかけをつくったのは、母の些細なある提案だった。だけどたぶん、母のその提案をあたしが受け入れようが断っていようが、きっとなにかしらのきっかけであたしは彼と出会っていた。すくなくともあたしが万事屋に出入りしている限りは。だって彼は万事屋さんの知り合いなのだ。しかも結構仲が良い。とくにさかたぎんときとは年は違えもなにかとうまが合うみたい。何か彼の仕事の都合で万事屋を訪れるときにも(例えば桂さん捜索とか)、彼はさかたぎんときとその都合とは全く関係のない話題で立ち話をしていくことがよくあった。一方神楽ちゃんは彼のことを嫌っている。彼はどうだかわからないけど、神楽ちゃんと彼は顔を合わすたび、取っ組み合いのけんかをしている。あたしがぽつりと「仲良さそう」お煎餅を齧りながら呟くと、決まって彼らはその取っ組み合いの勢いで否定した。だけど神楽ちゃんは口では彼のことを口では悪く言っていても、心のどこかでは決して嫌ってはいないとおもう、本人は気付いていないと思うけど。

あたしがどうなのかというと、あたしは彼のことを憎たらしいと思ってる。まず、彼はとても意地悪で、彼はあたしを見つけると、必ず何かちょっかいを出す。あたしは彼のそのちょっかいについついいつも引っかかったりドジを踏んだりバカ正直に反応する、してしまう。彼はそのたび満足そうな、いやな笑みを浮かべる。あたしはそのたび彼の靴を思いっきり踏みつけたい気持ちになるんだけど、結局のところなにもできない。想像で踏みつけるしかできない。


だからあたしは極力彼に出会わないように出会わないようにと心の中で祈りながら外出する。だけどそういうときに限って出くわしてしまう。あたしの祈りはいつも通じない。彼に出くわしたとき、逃げようと思うことさえある。けれど逃げると追いかけてくる。彼の職業柄、当然といったら当然だけど、彼は足がはやいので、すぐに追いつかれてしまう。50m10秒で走るあたしが彼から逃げきることなんてほぼ不可能だ。追いつかれて腕を掴まれたとき、彼は「おっせえなあ、おまえ」と平然としている。あたしの手首をつかむその手はやっぱり白くて細くてきれいなんだけど、でもごつごつと骨ばって逞しい。あたしの手首にそれはくるりと巻きついていた。あたしは息切れしながら言う。「なんで追いかけてくるんですか」「逃げるから」彼は即答した。「離してください」「いやだ」「いやだってなんですか」「だって逃げるじゃん」「なにか用ですか」「べつに」「いい加減にしてください、まったく」そのひとはあたしを見下ろして、目をぱちくりさせる。あたしはそのひとを見上げる。嫌だ。なんだかこの体制嫌だ。「そういや何か言おうとしたんだよ」「じゃあはやく言ってください」「えーとなんだったかなあ。あ。おまえってさあ、」「はい」「なんでもない」「え?なんですか。途中まで言ったらならさいごまで言って下さい、気になります」「そんなに気になる?」「はい」「わりい、忘れちまった。残念でさァ」彼はにやにやした。あたしは思わず彼の靴を思いっきり踏みつけそうになった。できなかったけど。こういうやりとりを何度かしたことがあるけれど、彼はこういうときべつになにも考えちゃいないのだ。あたしをからかっているだけなのだ。あたしが半ば涙目で逃げ出した時点で、彼はあたしから良く思われていないことくらい察しているはずなのに、相変わらずあたしにちょっかいをだしてくる。むしろ彼はあたしが彼を嫌えば嫌うほど、あたしにちょっかいを出してくるような気がする。あたしが「きらい」なんて言った暁にはあのひとはたぶん、むしろ喜ぶんじゃないかと思う、そうおもうとこわい。あたしは決して器用な受け答えの出来る女の子ではないし強気な女の子でもない、どちらかといったらやや控えめ寄りの、至って普通の女の子なのだ。最初のうちはあたしだって彼のあの中性的で整った容貌に微かなときめきを感じていた時期もあった、だけど、そのうち彼が意地悪どころかエスっ気があり不健全極まりない趣味を持っていることを知って、あたしの彼に対する熱は冷めていった、それどころかどんどん苦手意識が強まっていった。だけどそれが強まるにつれ、心なしか彼があたしに接してくる機会が増えてきたような気がする。よくもまあ隠しているなあとおもう。彼の、その、悪趣味を。あたしは15年間生きてきたけれど、ひとを見る目くらいは養っておかなきゃいけないとおもった。あ、彼はじぶんの趣味を隠していたというわけではないと思う、むしろオープンだ。ただあたしが勝手に誤解していただけ、外見通り、素敵なひとなんじゃないかって。彼の趣味を否定しているわけではないし、そういう趣味があったって良いとおもう。でも、あたしはそれを好きだとおもえない。それだけ。あたしはすきなひとに意地悪なんてされたくないし、どちらかといったら優しくされたい。中には彼みたいな男の子が好きと言う女の子もいるだろうけど、よくわからない。男の子は紳士的であるべきだとおもう。桂さんみたいに。桂さんに紳士的に振る舞われた暁にはたぶんあたし惚れてしまう。



あたしは彼とよく出くわした。それも偶然。もしかして後でも着けられているのではと思うくらい高い頻度で、あたしは彼と遭遇した。例えば街中や、飲食店で。彼はあたしを見つけると、必ず背後から声をかけてくる。彼の声のかけ方といったら最悪で、いつもあたしの腰のあたりに膝で軽く蹴りをいれてきたり、膝かっくんをしてきたり、後から目隠しをしてきたりする。目隠しをしてくるとき、そのひとはいつも何も言わない。だから当然あたしはびっくりするわけで、不審者なんじゃないかと思い混乱する。あたしは思わず叫び声をあげる。彼は「うるせえな。俺だよ」と可笑しそうに笑う。後を振り向くと不審者どころかそういうひとを取り締まる側、真選組の制服を着た男の子が立っている。けらけら(けけけ、かもしれない)とこれもまた意地悪そうに笑いながら。人の反応を面白がって笑ってる。あたしはそれを見てふてくされる。「またあなたですか、まったくいい加減にしてください」「まあそう怒るなよ」そう言いつつもにやにやしている。だけどときどき「あ。だー」なんてまともに声をかけてくることがある。ほんとうにときどき。相変わらずあたしはげっと思うのだけれど。



いつかあいつに思いっきりキックもしくはパンチをかましてやりたい。だけどぜったいそんなことあたしにはできない。想像するだけでいつも終わる。神楽ちゃんはしてるけど。キックもパンチも。思わずだいじょうぶ?と心配になるくらい、激しく取っ組み合いのけんかをしている。冗談っぽく、一度あの人の肩らへんに軽く常日頃の憎しみをこめたつもりでパンチするみたいに小突いてみたら、「じゃれてんじゃねえよ」と勘違いされた。冗談じゃない。じゃれるわけない。彼は相変わらずにやにやしていた。やり返されはしなかったけど。


彼はあたしがいつもどこにいるのかたいていの場合知っていたけれど、あたしは彼がどこにいるのか知らなかった。だって彼は、本来彼がいるべき場所に、いつもいない。あたしの想像力がどんなに豊かであろうとも、きっと彼の居場所を特定できない。それにあたしは彼がどこにいようが関係ないし、知りたくないし、興味もない。しいて言うなら出来る限りあたしから遠いところにいてほしい。それくらいあたしは彼のことがにがてだった。まず彼はあたしをとても緊張させる。彼の隣にいると、心臓がどきんどきんいって、気持ちが落ち着かなくなる。良い意味での緊張や落ち着かないという気持ちでは決してない。絶対にない。
あたしの家は母が家を空けることが多い。だからときどきあたしは一人で外食することがある。かぶき町駅付近の牛丼屋のチェーン店で一人大根おろし牛丼(並み)セットを食べていたときのことだった。さいきんは牛丼屋も女のお客さんが多いから、そんなに入りにくい雰囲気でもない。それにこういうお店は誰も周囲に関心を向けないし、一人で来ているお客さんが多い。ふとなんとなく顔をあげると、嫌なやつが目に入った。栗色の髪の毛に真選組の制服。ぐるっと円形になっているカウンター席の斜め前の席に彼はいた。店はそんなに混んでいなかったから、気付かれるのも時間の問題だ。そう思うと一気に食欲がなくなった。彼は上司と二人で食事していた。確か名前は土方さん。真選組の副長だ。ちなみにとてもかっこいいひとだ。話したことがないからどんな性格の人かは知らないけれど。だけどあんなに困った部下を抱えているのだから、出来たひとに決まっている。えーいやだなあ…と思いながら様子をうかがっていると、彼と一瞬目があった。あたしはメニューでさっと顔を隠したけれど、遅かった。彼はすぐにあたしに気付いた。メニューを少しずらして彼のほうをちらっと見ると、彼は丼を持ってこちらに近づいてくる。上司と食事中ならあたしのことなんか気にせず食事を続けていれば良いのに!とあたしは心のなかで叫んだ。彼はあたしの隣の席にどかっと座った。彼はあたしの顔をのぞきこむ。メニューの下から。目があった。「よお、奇遇だな」にやにやしている。だけどやっぱり間近で見るときれいな顔をしている。
「おいそれいつまで持ってんだ」
あたしは溜息をつきながらメニューを下す。
「年頃の女が牛丼屋で一人飯?寂しいでさァ」
彼はお茶を啜りながら言った。ちょっとそれあたしのお茶なんだけど。
「うるさいなあ。ほうっておいてください。牛丼屋に一人で来たらいけない決まりでもあるんですか」
「つれねえな。寂しいだろうと思って移動してきてやったのに」
「副長と食べてたんでしょ?戻ったほうが良いんじゃないですか」
「放っておけば勝手に勘定して帰りまさァ」
あたしは話したことのない副長にじっと視線を送ったけれど、副長はあたしの視線に気付いてくれない。男前な副長は煙草を灰皿に押しつけて、席を立ち、会計を済ませて店から出て行った。あたしの隣で牛丼を頬張るこの困った部下に一瞥もしなかった。男のひとって、こんなものなのかな。こんなにあっさりしているものなのかな。
このひとはほんとうにひとを緊張させる。あたしはこのとき食べた牛丼の味を覚えていない。
「なあ」
「なんですか」
「ここよく来るの」
「たまに」
「ふうん」
あたしの箸の進みはこのひとの出現で一気に遅くなった。ご飯が喉を通らなくなる。
「おまえ、普段なにしてんの」
「なにって学校行ってます」
「そうじゃなくて。学校とか以外で」
「えー、万事屋さんに行ったり…あとは宿題したり気が乗れば散歩したり漫画読んだり。あと友だちと遊んだりします」
「想像の範囲内でさァ」
「想像しなくて良いです」
「おまえくらいの年頃のがきがどういう生活送っているかなんて、簡単に想像がつくんだよ。聞くまでもなかったでさぁ、どうせ単調な生活を送っているんだろ」
たしかにそうだと思った、あたしの生活は単調だ。彼の隣で、あたしはじぶんの日常を思い浮かべた。だけどあたしはそれに納得するのもなんだか悔しい気がしたので、あえてそれを否定した。彼といると、そういう気持ちになった。
「あたしだって結構いそがしいんですよ?先輩のしらない世界をあたし、たくさん知っています」ほんとうはなにもしらないんだけど。
「ふうん。たとえば?」
彼はにやにやした。いわゆるかわいこぶる、という意味であたしは彼を意地悪と言っているわけでは決してない。彼は本当の意味で意地悪なのだ。あたしは当然言葉に詰まる。あんなこと言わなければ良かった。こういうふうにあたしは彼の前でついついドジを踏んでしまう。言葉に詰まり、5秒ほどの間を置いて、あたしは言った。こほん、と咳払いする。手元の水を飲む。
「……先輩には関係ないでしょ」
「ふうん」彼はにやにやした。
「ほんとうは何も知らないだろ、酒も飲んだことないんじゃね」
「だってまだ20歳になっていないし飲めないじゃないですか」
「ほんとうに何も知らないのな、おまえ」
彼はぼそっとそう言った。ひとりごとみたいに。
「何も知らなくたってこれから知っていけば良いんです」
あたしは少しむっとしたけれど、彼は笑っていた。そのときはそこまで意地悪な笑みではなかった。ふつうに笑った、というのもおかしいけれど、ごくごく自然な笑みを浮かべた。「あっそう。健気だな」あたしは彼の意地悪を振り切れたとおもった。だけどさっきの彼の、「ほんとうに何も知らないのな」という一言にはなにやらふしぎな、色気のようなものを孕んでいた気がした、そこだけを思い出すと胸のあたりがつっかえるような、なんだか変な気になって、もやもやして、それを振りほどくように、あたしは彼の腕をパンチするみたいに小突いた。やっぱり力は入れられなかった。本当は思いっきり殴りたかった。じぶんはあたしと違って色々なことを知っているとでもいうのだろうか。「だからじゃれんなって」またしても彼は勘違いした。じゃれてない。
「食べ終わったし、帰ります」
「万事屋の旦那んとこ行くんですかィ」
「今日は家に帰ります。お母さん帰ってくるし」
「ふうん」
「それじゃあさようなら」
「またなー」
彼は頬杖をついていないほうの手を、だらりとだらしなくあげた。
彼は別れ際、いつもまたな、と言った。はじめて会った日だって、またな、と言って別れた気がする。彼はドSのくせに、言葉はしっかり選ぶタイプの人間なのだろうか。あたしは出来ることならもう二度と会いたくないと思うから、いつもさようならと言うのだけれど。