万事屋さん、万事屋のお兄さんとはじめて会ったとき、一目でわかった。ああこのひとが母の話していた万事屋さん、坂田銀時か、と。
万事屋さんの存在は、もうほんの小さな子どものころから知っていた。なぜならつねに万事屋さんの名刺を持ち歩いていたから。定期入れのなかに。 だからはじめてそのひとの姿をとらえたとき、ほんのすこし感動した、と同時に、母の表現したとおりの風貌であったことにすこしわらった。そして想像していたよりもその人物が若かったことに驚いた。銀髪だって母が話していたから、てっきりお年寄りなのかとばかり思っていた。あたしに(万事屋さんに対する)かっこいいイメージを抱かせるために単なる白髪を銀髪って言い換えたのかな、とか、そんなことを思っていたから。でもたしかにくせのある銀髪と着崩した着物のそのひとは、なんだか物憂いな雰囲気があって、人とは違う感じがした。血色が悪く色白で、ただひょろりと突っ立っているそのひとの姿だけを見ていると、なんだか押したら倒れそう。でもさすが侍だけあって、よく見ると筋肉のついた、逞しい体つきをしていた。

はじめて万事屋のお兄さんと顔を合わせたとき、あたしと万事屋のお兄さんは、「こんにちは」「はじめまして」なんていうありふれた挨拶を交わした。母の名前は口にしなかった。だから万屋のお兄さんは、この時点であたしのことを神楽ちゃんの友人、とだけ認識していた。たぶん。その日、あたしははじめて神楽ちゃんの家に遊びに行った。その日は雨が降っていて、とくに何もすることがなかったから、なんとなく神楽ちゃんの家で遊ぶことになったのだ。ふたりで傘をさして歩いていて、とあるスナックの前で神楽ちゃんは立ち止り、その二階を指さして、言った。「ここが私の家アル。」 その木造建築二階建のてっぺんに、『万事屋銀ちゃん』と記された大きな看板が掲げられていたのだから驚いた。まさかここがむかしから母から聞かされていた万事屋さん、だなんて、と。そしてまさか神楽ちゃんが万事屋さんの一員だったなんて!と。あたしの心境は興奮気味で、心臓がどきんどきんいっていた。だけど平静を装った。「ただいまアルー。」と神楽ちゃんが戸を開ける。 まあそのあとすぐにあたしが万事屋のお兄さんの昔からの知り合いである母の、娘であることはばれてしまったのだけど。

中は薄暗く、ひんやりとした雨の日の家独特のくうきが立ち込めていた。薄暗い廊下を抜けて、その家の中央の部屋、たぶん普段は相談を受けるための部屋の襖をあける。

「友だち連れてきたネ。ちゃんネ。」

万事屋のお兄さんはあたしに視線が合うように屈みこんだりなんてことはせず、上から堂々とあたしのことを見下ろしていた。まあそうだろうなあ、子どもに対してそういう気遣いをしないタイプのひとだろうな、とあたしは思った。更にそのひとは神楽ちゃんに対して「神楽おまえ友だちなんていたのかよ。」と言い放った。
「私は人脈が広いアル。銀ちゃんも人づきあいは大切にしたほうが良いネ。」
「俺は人づきあいをプライベートに持ち込まないの。
まあゆっくりしていけよ。なんもないけどな。あとあんまうるさくすんなよ、俺これから寝るんだから。」
と言って奥の部屋へと消えていった。嫌みなくそんなことを言う。(そうかあ。あのひとがいざというときにはすごい万屋さんかあ)、と思いながら、あたしは気だるそうな万事屋のお兄さんの後ろ姿を見送った。「きっと二日酔いネ。朝帰りネ。」と神楽ちゃんはあたしの耳元でひそっと呟いて、てひひひ、とおかしそうにわらった。あたしは万事屋のお兄さんの入っていった部屋の襖をほんの数秒見つめていた。 だけどそれから数秒後、万事屋のお兄さんは襖からちょこっと顔を出し、「おい、神楽。ミロくらい出してやれよ。」と言って、また襖をしめた。たしかにその日の万屋のお兄さんは少し具合が悪そうだった。
神楽ちゃんはあたしの顔を一度見て、その後口に息を吸い込んで、思いっきり叫んだ。

「おいっ新八ィー!いないアルか!」
「おいうるさくすんじゃねえっつったろ!」「そんな大きな声出さなくても聞こえてるよ!」
という神楽ちゃんに引けをとらない、大きな声が二つ重なって聞えてきた。更に下の階からも「うるせえよ!」という名物女将の叫ぶ声が聞こえてきた。その後、お風呂場兼、洗面所から、かっぽうぎ姿の男の子が出てきた。暗い廊下から蛍光灯の思いっきりついた部屋に入ってくる。顔があらわになる。
「なに?神楽ちゃん。」
困ったように笑っていた。
「ミロ作るアル。ふたりぶん。」
男の子は神楽ちゃんの横に突っ立っているあたしに気がつく。
「あ。友だち?珍しいね。いらっしゃい。はじめまして。志村新八です。」
男の子はそう言って頭をさげた。新八と呼ばれたその男の子はあたしとそう年が変わらなさそうだ。
眼鏡をかけていて、優しそうな顔立ちをしていた。
「はじめまして。です。おじゃましてます。」
あたしはそう言って頭をさげて、わらう。新八君もまたわらう。
「ミロいれてくるね。」と言って新八君は台所へと消えていった。
「賑やかな家だね。」
「いつもはもっとうるさいアル。あいつら雨だからってみっともないすがたさらしやがってごめんアル。みんな雨が嫌いネ。」
「神楽ちゃんのお兄さん?」
これはそのとき、あたしの中で浮かび上がっていた純粋な疑問だった。あたしはそのとき、この街に越してきて初めて出来た友だちである神楽ちゃんが、あの万事屋さんの一員だったなんて、と少しばかり運命たるものを感じていたのだ。万事屋さんっていうのは万事屋のおにいさん一人ではなく、三兄妹で運営されてるものなんだって。
「まあそんな感じアル。」と神楽ちゃんは答えた。その声は少し小声で、なぜだか少し照れたような表情をしていた。
「良いなあ。お兄さんが二人もいて。あたし一人っ子だからうらやましいな。」

「ここが私の部屋」、と神楽ちゃんは押し入れを指さした。え、ドラ●もん?とあたしは思った。「なんか、漫画のキャラクターみたいだね。」「狭くて落ち着くネ。」秘密基地みたいヨ、と神楽ちゃんは言った。きっとこのこはここのみんなのことも、この押し入れのことも大好きなんだろうなあ、となんとなく思った。神楽ちゃんは押し入れの上の段に飛び乗った。あたしを上から見下ろす、またてひひひ、とわらう。 あたしは押し入れの下の段にもそもそと潜り込んでみる。布団のにおい。なんだかむかし自分の住んでいた家とおなじようなにおいがして、不思議と懐かしい感覚がした。ぽつぽつと雨が窓辺をうつ音が際立って聞えた。布団の感覚がひんやりとつめたかったけど、でも不思議と気持ちが落ち着く場所だった。あたしはそこで膝を抱えて座ってみた。「なんか、家の押し入れのにおいとちょっと似てる。」「どこの家の押し入れも同じにおいがするのはきっと押し入れが同じ場所に繋がっているからネ。」「そういう映画見たことある。押し入れの向こうに不思議な国が広がってたってやつ。」「まじでか!じゃあ私の押し入れもちゃんの押し入れもワンダーランドに繋がってるアルか!」「そうかも。」あたしは膝のうえに顔をうずめて、瞼を閉じる。瞼の裏側に空想のせかいがひろがる。目を閉じるとそこにはいつも宇宙がひろがっていた。あたしはそういう感覚がすきだった。
押し入れのなかの未知についての話をしてからというもの、あたしと神楽ちゃんはそれからしょっちゅうありもしない架空のせかいをふたりで空想しては、非日常的な、ふよふよとした浮遊感をたのしんだ。そういう話をするときは、たいてい雨の降っている日で、決まって押し入れの中だった。神楽ちゃんが上の段、あたしが下の段。あたしは相変わらず膝を抱えて座っていた。あたしと神楽ちゃんのひそひそ声だけが雨の降る音の間に響いていた。薄暗い室内。お互いの顔が見えない。音だけの世界。空想。

それから数分後、新八君がお盆にマグカップを三つ乗せて顔を出した。「ふたりともそんな狭いところでなにやってんの?銀さん寝てるし雨だからお客さんもこないだろうし、部屋を広く使えるよ。一緒にDVDでも見ようよ。」
「なんだよ。ダメガネ。ガールズトークの邪魔するんじゃねえよ。」
え、いまのガールズトークだったの?とあたしは思った。「ダメガネって言ったな!いま!…ちゃん、ゆっくりしていってね。なんもないけど。でもDVDくらいならあるからさ。」

そのDVDっていうのは、寺門通という流行りのアイドルのDVDだった。あたしと神楽ちゃんと新八君は一緒にテーブルを囲みながら、そのDVDを見た。新八君だけが騒いでいた。ときどき寺門通についての新八君の解説が入った。まあライブパフォーマンスで有名なアイドルだったから、寺門通について何も知らなかったあたしでも見ていて飽きることはなかった気がする。
「今度、ア●トーークのDVD持ってくるね。」とあたしは言った。「まじでか!また遊びに来るアル。客なんてどうせめったに来ないアル。今度は夜通しア●トーークで盛り上がるネ!」 「また来ても良いの?」「もちろんネ。今度は泊まりにくるアル。きっと楽しいネ。」「そうだよ。ちゃん、また遊びにおいで。」
神楽ちゃんと新八君があたしの顔を同時に見て、そしてほぼ同時にそんなことを言った。なんだか胸の表面がほっとあたたかくなった気がした。久しく感じてなかった感情だった。「…うん」、とあたしはすこし俯いた。